はじめに

はじめに

アール・ヌーヴォの旗手エミール・ガレに影響を与えた日本人がいた

高島得三(のちの北海)とはどんな人物だったのか?

長年、小骨が喉に引っかかっていた。もう30年以上も、その小骨は取れず、わたしをいらだたせている。物をのみこむときは気にならないのに、呑みこんだあと何か異物が喉に残っているのだ。私には小骨の正体はわかっていたが、それを取り除くことができないでいた。しかし自分の年齢を考えると、このあたりで始末をつけねばならないと考えるようになった。画家、高島北海(1850~1931)のことである。

高島北海は明治、大正、昭和に生きた長寿の日本画家である。高島の名前は日仏交流史を読むと、ジャポニスムの流行とアール・ヌーヴォの章にきまって、ガラス芸術家エミール・ガレと親交があった日本人高島得三(のちの北海)として登場する。高島が明治の役人としてナンシーの国立森林学校に留学していたとき、エミール・ガレと知り合ったと記述されている。

アール・ヌーヴォの旗手、エミール・ガレの作品をみると、日本美術からヒントをえた痕跡がいくつもみられる。しかしのちに役人から画家に転向する高島の日本画には、西洋絵画の影響もガレがあみ出したアール・ヌーヴォの特徴もみられない。日仏交流は、互いになんらかの影響をうけあうのではないのか。ガレは高島からどんな影響をうけたのか、高島はなぜガレから影響を受けなかったのか、私の疑問はそこから始まった。

疑問を持って高島北海について調べてみると、さらに疑問が増えた。彼は53歳の時に本格的に画家をこころざし、短い期間に日本画壇の頂点までのぼりつめる。なぜそんなに速いスピードで出世できたのか。高島が活躍した明治の画壇はどんな様子だったのか。彼の作品は、当時どんな評価をされていたのか。人生100年時代といわれている現在でも、53歳で第二の人生をめざすには遅すぎはしないか。明治時代の平均寿命を調べてみると明治から大正時代は、44歳前後が平均寿命だという。何かを始めるには明らかに遅すぎる年齢である。
一体、彼は何を考えて、どんな画を描き、どんな画家を目指そうとしていたのか。自分の年齢をどう思っていたのか。

高島得三(のちの北海)とはどんな人物だったのか?

高島は35歳のとき、フランスの国立森林学校に留学し、ナンシー派のアール・ヌーヴォの芸術家エミール・ガレと交流する。帰国後、高島の役人生活は順調で、かれのキャリアには汚職や部下の失敗などの汚点はみあたらない。彼はふだんから画家になりたいと公言していたのでもない。高島は申し分のないほど健全なエリート役人コースを歩んでいた。その彼が突然、画家になることを宣言し、画壇デビューするために東京に一家で引越しするのだ。生まれたばかりの乳飲み子もいるのに。

私の高島への関心は自宅に高島の掛け軸があったことも大きい。私は興味をひかれて高島の掛け軸をみなおしてみた。富士山を描いたさっぱりしたよくまとまった富士山だった。“売り画”といわれる画家がパンのために描いた無難な山水画だった。

筆者所有の掛け軸

著者所有の掛け軸

私は高島の他の作品をみることにした。

高島のモチーフは、山と花。特に山岳の絵が多く、日本の名峰やアルプス、ロッキー山脈の峰々を描いている。花鳥画は、几帳面に描かれているが、酒井抱一や鈴木基一のような花の妖艶さやはかなさは描かれていない。彼がすごしたフランスの町の風景画すらないし、ロマンスがあったといわれている下宿の娘の肖像画もない。高島は、どんな嗜好の持ち主だったのか、何を考えて、何をめざしていたのか。彼は一体どんな男だったのか。高島について調べれば調べるほど分らなくなった。私は完全に道に迷ってしまった。

『大体、余生で描いた画から傑作が生まれるとおもうほど芸術が甘くない。画家はゴッホのようになるべきだとはいわないが心臓をちぎりちぎり作品に向かってほしい』当時の私には画家高島の情熱の欠如に不満があった。

フランス留学の高島とガレとの交流 空白の3年間を追う

私は高島への疑問をかかえたまま、高島ゆかりの人々に会い、ナンシーへは2回取材に行った。1回目は1986年、3週間滞在し、まるでトラックターがゴミを集めるようにガレ関係者、ナンシー派のアーチスト関係者の子孫に取材した。その取材をまとめてみると不明な点がうかびあがり、2回目1987年に再びナンシーにでかけた。今度は地ならしができているのである程度ポイントを押さえて3週間取材した。その取材中、ガレ研究の第一人者といわれていたシャルパンテイエ女史(ナンシー派美術館館長)に取材を申し込んだが、「高島は森林学校に地質学を勉強にきた役人でしょう。偉大な天才ガレが地質学の技師から影響をうけることはない」と言い放った。目の前でピシャリと戸を閉められた。その剣幕におされて私は「高島の娘さんからあなたにお土産をあずかってきている」というのが精いっぱいだった。しかし「高島の娘」という言葉に彼女はようやく表情をやわらげたが、彼女の意見は変わらなかった。私はガレと高島の交流をドキュメンタリー番組にしたいと思っていたが、その下心はついえた。しかしそのことで私は人が人に与える影響とは何かについて考えるようになった。シャルパンティエ女史の言葉が牽引力になったが、私は高島なる人間の芯の芯のところまでたどり着けなかった。そのうち勤務している番組制作会社の仕事が忙しくなり、原稿は中断したまま放置された。35年以上がたち原稿はすっかり黄ばんでしまった。

75歳になった今、35年前に書き損じた高島の原稿をもう一度読みなおし、高島の人生を点検してみようと思う。その中に第二の人生という退屈で暮れそうで暮れない人生の妙薬がみつかるかもしれないと期待するからだ。